実験に用いる単気筒エンジン
実際のエンジンに向き合い、カーボンニュートラル時代を切り拓く
街中を歩いていると、エンジン音がしない自動車が多くなったことに気がつく。世界では脱炭素社会の実現に向け、電気自動車や再生可能エネルギーの導入が急速に進められている。しかしながら、私たちの社会を支える機械のすべてが、すぐに電動化できるわけではない。発電機、建設機械、フォークリフト、船舶、産業用機械など、長時間にわたり大きな力を必要とする現場では、今なお内燃機関が重要な役割を担っている。燃料を変え、効率を高めつつ、信頼性を確保することで、エンジンはカーボンニュートラル時代にも社会を支える技術であり続ける。その可能性を実際のエンジン開発を見据えながら追究しているのが、理工学部の三原雄司教授である。
東京都市大学では、水素エンジンの研究に長い歴史がある。その取り組みは1970年代から続き、すでに50年以上に及ぶ。大学内には水素エンジンの研究に対応した水素実験棟があり、万が一、水素が漏れてしまった場合でも軽い水素が上部へ抜ける構造になっている。「この大学には高圧の水素を扱うことができる体制も整えられています。大学規模では極めて特徴的な設備環境だと思います。」

水素エンジンの大きな利点は、燃焼時に二酸化炭素を排出しない点にある。ガソリンや軽油といった化石燃料は炭素を含むため、燃焼すれば二酸化炭素や一酸化炭素、炭化水素などが発生する。一方、水素は炭素を含まないため、基本的に燃焼によって生じるのは水である。しかし、水素エンジンにも課題はある。空気中の窒素と反応して大気汚染の原因となる窒素酸化物が発生し、また燃焼によって大量の水分が生じることで、エンジンオイルなどの潤滑油や金属部品に影響を与えることもある。三原教授が重視しているのは、こうした実用化にあたって避けて通れない課題を、燃焼、潤滑、材料、計測の各側面から明らかにすることだ。

研究室では、水素を燃焼室へ供給するとどのように火炎が広がるのか、その現象を詳細に調べている。水素エンジンの燃焼方式には、吸気ポート内で空気と水素を混ぜてから燃焼室へ送る方法と、燃焼室へ直接水素を噴射する方法がある。前者は、既存のエンジンを改造する場合には導入しやすいが、出力や排出ガスの制御を考えると、後者である直接噴射に大きな利点がある。東京都市大学では、長年にわたり直接噴射方式を中心に研究を重ねてきた。レーザーや鏡、高速度カメラを用いて燃焼室内部を下側から観察し、火炎が冷えた壁面に近づきすぎないよう燃焼の広がり方を制御する。これにより、熱効率を高めながら窒素酸化物を低減する燃焼の実現を目指している。三原教授の研究の特徴は、単に燃焼だけを扱うのではなく、実用のエンジンとして成立させるために必要な課題を一体的に捉える点にある。高温の燃焼ガスに含まれる水蒸気は、冷えたエンジン壁面に触れると液体の水になり、潤滑油へ混入する可能性がある。特にエンジン始動直後のように各部の温度が低い状態では、水分の影響を無視できない。「潤滑油に水が入っても、エンジンが温まれば蒸発するから問題ないと言われることもありました。しかし実験してみると、一度水の影響を受けた潤滑油は、元の状態へ完全には戻らないことが見えてきたのです。」

この研究では、潤滑油の中に含まれる添加剤にも着目している。一般的な潤滑油には、摩擦や摩耗を抑えるために、カルシウムやマグネシウムなどの成分を含む添加剤が用いられる。通常は、これらが金属表面に薄い反応膜を作ることで、部品同士の接触を抑え、摩擦を小さくする。しかし、水分の影響を受けた潤滑油では、その膜形成がうまく働かなくなることがある。三原教授らは、特定の添加剤成分が水分と関わり、摩擦特性の回復を妨げている可能性を見出した。この成果は、水素エンジンに適した新しい潤滑油の開発につながることが期待される。
もう一つの柱が、エンジン内部の現象を測るための計測技術である。燃焼方法や燃料の供給方法を変えた時、燃費が良くなったという結果だけでは、次の改良にはつながらない。なぜ良くなったのか、どこへ熱が逃げたのか、どの部品にどのような力がかかったのかを知る必要がある。そこで三原教授は、温度や圧力などを測る薄膜センサーを開発し、運用してきた。ピストンや歯車といった実際の部品表面に数ミクロン厚のセンサーを組み込み、動作中のエンジン内部の状態を直接捉える技術である。この薄膜センサーの技術は、エンジンだけでなく歯車やトランスミッション、さらには水素を用いたモーターサイクルや航空分野への応用も期待されている。微弱な信号を扱うため、ノイズの影響を抑える計測システムも欠かせない。三原教授の研究室では、センサーだけでなく、信号を取り出すためのアンプや電源供給の仕組み、回転部品からデータを取得する装置まで、必要に応じて独自に構築している。センサー、計測装置、エンジンの三者を一体で理解しているからこそ、得られたデータの妥当性を判断できる。「私が大学院生のころに考えた“エンジン部品に薄膜をつける”という発想は、周囲から非常識だと言われました。しかし測れないなら、測る方法を考えなければならない。やるしかなかったのです。」

近年、三原教授が力を入れている研究の一つが、ウルトラファインバブルの内燃機関への応用である。ウルトラファインバブルとは、非常に小さな気泡のことで、シャワーや洗浄、農業、機械加工など、さまざまな分野で利用が広がっている。三原教授はこの微細な泡を潤滑油や燃料へ応用し、摩擦損失の低減や燃費・排出ガス特性の改善につながる研究を進めている。従来、エンジンオイルでは泡は取り除くべきものと考えられてきた。泡が入れば潤滑が悪くなり、エンジンを壊す要因になるとされてきたからだ。しかし三原教授は、あえて泡を入れる発想から出発し、摩擦損失を低減できる可能性を示した。「なぜわざわざ泡を入れるのかと、色々な人から言われました。でも、入れてみたら摩擦が下がった。そこで初めて、みんなが認めてくれる。そこに研究の醍醐味があります。」
さらに、環境調和型の潤滑剤として、糖アルコール水溶液を用いる研究にも取り組んでいる。キシリトールやソルビトールといった糖アルコールは、食品にも用いられる身近な物質である。水素エンジンが化石燃料を使わないとしても、潤滑油が原油由来のままでよいのかという問いからこの研究は始まった。欧州でも、鉱物油に代わる環境対応型潤滑剤の研究は加速している。三原教授らは糖アルコール水溶液を歯車ユニットなどに適用し、鉱物油と比較しても損失を低く抑えられる可能性を確認しつつある。我々の口に入れても大きな害にならないような物質が機械を支える潤滑剤になる。そこには、脱炭素だけにとどまらない新しい機械技術の可能性がある。
三原教授が現在の研究分野に進んだ背景には、高校時代に見た東京都市大学の前身である武蔵工業大学のパンフレットがある。当時、大学が水素自動車を開発し実際に走らせていることを知り、大きな衝撃を受けたという。単に水素でエンジンを動かすのではなく、水素で車を走らせる。その世界観に惹かれ、武蔵工業大学で学ぶことを決めた。先人たちの、液体水素タンクまで自分たちで作り車を走らせてきた「できないことをやる」という姿勢が、現在の研究にも受け継がれている。一般的な基礎研究では、テストピースを擦り合わせるところから出発し、その成果を実機へ応用しようとすることが多い。しかし研究室では逆に、実機から始まり、そこで見つかった課題を切り出して、基礎試験や解析へと落とし込んでいく。「私たちはエンジンが好きで、エンジンの研究からスタートします。実機の中で具体的な課題を見つけ、それをどう基礎的な現象の解明へと落としていくか。そのやり方が、この研究室の独特なところです。この分野を先導している自信もあります。」

水素がガソリンや軽油に代わってエンジンを動かす燃料として広く普及するには、まだ時間がかかる。三原教授は、水素の価格や供給体制を考えると、誰もが気軽に使えるようになるのは2040年以降になるのではないかと見ている。だからこそ、水素だけに頼るのではなく、バイオ燃料、合成燃料、環境調和型潤滑剤、ウルトラファインバブルなど、多様な選択肢を組み合わせることが重要になる。カーボンニュートラルは一つの技術だけで実現できるものではない。社会の中で使われる機械の現実を見据えながら、使える技術を積み重ねていく必要がある。日本の水素関連技術や内燃機関技術は、今なお高い独創性を持っていると三原教授は語る。ただし、研究成果を社会へ還元するためには、一つの大学や企業だけでは不十分だ。大学同士が得意分野を持ち寄り、企業も本当に困っている課題を共有し、産学間や大学間の連携によって研究を進める必要がある。三原教授の研究室は、企業や他大学、海外の研究機関から共同研究の相談を受ける機会も多い。エンジンそのものに向き合い、必要なものがなければ自分たちで作る。その姿勢が、国内外の研究者や企業を引き寄せている。

「できない」と言われたことに取り組み、実験データが現れた瞬間に新しい道が開ける。三原教授にとって、それは研究者を続ける大きな喜びでもある。エンジンの中で起きている見えない現象を測り、理解し、社会で使える技術へとつなげていく。カーボンニュートラルという大きな目標に対して、三原教授の研究は、理想論ではなく、実機に根ざした確かな技術開発で応えようとしている。内燃機関の未来は、燃料を変えるだけでは切り拓けない。エンジン内部で起きるさまざまな現象を理解し、信頼性まで含めて設計すること。その地道かつ独創的な研究が、次の時代を動かしていく。
理工学部機械工学科、大学院総合理工学研究科機械専攻教授。総合研究所高効率水素エンジン・エンジントライボロジー研究センター、センター長。1995年、武蔵工業大学工学研究科機械工学博士課程修了、博士(工学)。武蔵工業大学准教授等を経て、2011年より現職。